■■安藤搨石評論集■■
@宮島詠士論

「宮島詠士の書」 

 有名だが一度もその姿さえ見たことが無いというような相手は、有名であればあるほど、何となく遠い時代の人であるように錯覚することがある。僕の場合宮島詠士に対してそれがある。今度この稿のために宮島詠士年譜を調べてみて、彼が昭和十八年七十六歳で没した人だと知って、すこしあわてたというところだ。その年僕は二十八歳、地方出だがもう一人前の顔をして同じ東京にいたのだ。宮島詠士が僕にとって遠い存在であった理由はもう一つある。僕がとにもかくにもその消息に通じ、やがてそこに棲息することになった世界は、いわゆる書道界であるが、宮島詠士は全生涯を書道界とは無縁に生きた人だ。だから宮島詠士の赫々たる書名も僕にとっていわば伝説も同様であったと言ってよい。

 彼の徳を慕う門人達の手によって、生涯には絶対許さなかったであろう「宮島詠士展」が戦後度々開かれている。それまで宮島亜流の書を見て、大体こんな風なものと見当をつけていた僕等の前に本物の宮島詠士が雲の切れ目から、次第にその山容を現してきたのである。我々は先ずその気魄に圧倒された。彼の門人達というのは、彼の家塾「詠帰金」時代(明治二十八年)から、その発展である「善隣書院」を通じて教育した中国語・漢文の門人達のことで、その数実に三千とも五千ともいわれている。その門人達が師宮島詠士についていうとき、異口同音に必ず先生の「慈言静語」をいい「徳」をいい「人格」をいうのである。

 ところで彼の家塾名「詠帰金」も彼の号である「詠士」「詠而帰盧主人」も、彼が少年時代から師事した勝海舟の書いてくれた額の「詠而帰」の文句から出ている。「詠而帰」は論語の中の一節、孔子の門人曽晢が教育者としての理想を述べたくだりである。その勝海舟が後に又「学而不倦、教而不怠」と彼に書き与えている。

 その「徳」その「人格」に、文字通り「学而不倦、教而不怠」の私学教育生活五十年というのは、大変な偉いことだとは思うが、評伝で書こうとすれば、これほど手がかりのない人も少い。
 彼の数少ない書の門人の一人に、書家藤本竹香氏がある。ある日僕は竹香氏に電話した。

二玄社の宮島詠士遺墨集にある年譜より詳しい年譜というのというのはありませんか?
ありません。あれが一番詳しいのです。
宮島先生について何か特別に知っているというようなエピソードはありませんか?
ありませんね。何も。
(僕はいささかの皮肉をこめていった)宮島先生は人格者だったそうですが、神様のような人だったということですか?
ーそう。神様のような人でしたね。

 この宮島詠士にもただ一度の例外、雨の中を踊り跳ねて人に狂人と思われた話がある。彼が多勢の門人に語っていて、門人なら誰でも知っている有名な話だから事実だろう。

 彼は明治二十年から二十七年まで、中一年ほどの帰国の期間を除いて、清国に在って専ら張廉郷について文と書を学んだ。遇々師の死にあって服喪中の明治二十七年七月、日清戦争が起って急遽帰国の途中、黒琉江の辺りで雨に閉じこめられて旅館に在った。一夜雨滴の音を聞いて中鋒の極意を悟り、喜びのあまり雨中を跳ね踊った。その様を見た者これを狂人であるとした、というのだ。

 中鋒というのは、書かれた線の中心が必ず筆の筆先の中心に当たるという用筆法で、彼に限らず、この時代の書家はみなこういうことに熱心だった。この他にも撥鐙法などという執筆法についてもやかましかった、とこれも宮島の書の門人であった上條信山が何かに書いていた。ところが中鋒説も各人各様で必ずしも定説でなく、撥鐙法にも一つには燈心を引き上げる形容だといい、もう一つには鐙(あぶみ)をつま先で制御する乗馬術的な形容だとする二説があるとのことだ。今でもこういうことを尤もらしく説く人があるが、あまり過ぎると神がかりのようでおかしい。物理的に毛筆を統御できなければ書いていて気持ちが悪いからぐらいに考えていいのではないか。

 撥鐙法は燈芯を引き上げるような執筆法だとする説に親しみを感じる。馬の方はあいまいで信用できかねるが、執筆法の問題とは関係なく、撥鐙法ということばから、宮島詠士の書が馬術の妙技を連想させる効果があった。

 西部のロデオではないが、手に負えぬ悍馬をみごとに乗りこなしている姿宮島詠士の書だ。暴れ廻る馬の背に、法を信じ法を厳守する粛然たる御者がいて、馬の荒れるに委せながら前後左右に制御する。

 張廉郷は宮島詠士に張猛龍碑一本を示し、ただこれを臨書することを命じただけで余事は何ごともいわなかった。後年宮島の臨書は高貞碑にも及び、欧陽詢諸碑、顔真郷諸碑にも及んだが、総じて碑法帖の広い領域を渉猟したとはいえない。彼の意に叶った、主として碑帖を刻苦臨書して、おのずから換骨奪胎してできた彼の書であって、書体が楷書行書に限られていることでもそれは知られている。器用さなどは微塵もないものだ。

藤本竹香氏の文ー先生の、字の見方は又大変なものであって、十二字位の細字の一点一画の好し悪しを論じられ、たとえ一の字を引くにしても、起筆と終筆の間をいくつにも区切って○×をつけられ特に佳いところを二重の丸をつけられた。はなはだしい時は拡大鏡を出されて、よく見られたもので、一枚を見るのに一時間も二時間も掛かった(雑誌書道)

 これによって宮島自身の学書の方法、臨書の仕方が逆に想像できよう。刻苦臨書して換骨奪胎したというのは決して単なる形容詞ではない。

 さて、宮島詠士の書が、いかに熾烈な刻苦臨書の末に完成したにもせよ、その完成したオリジナルなスタイルはすでに今日的なものではない。一体この書のどこがよいのかと訝る者は少なくないはずだし、その崇高の美に感動する者も、この武人の剣のような用筆を学びたいとは思わないかもしれない。それが時代だ。そのこと自体を慷慨する者もあるが、慷慨することが旧時代の意識である。むしろ時代精神の違いが解ってこそ、芸術が解るというものではないか。


 僕の子供の頃、馬賊の歌というのがあった。

僕もゆくから君もゆけ
狭い日本にや住み飽きた
海の彼方にや支那があり
支那には四億の民がまつ

 馬賊とはおだやかではないが、大体こんな歌だったと思う。うろ覚えなのは、それが僕等より一世代前に流行した歌だったからだろう。大陸浪人とか支那浪人などということばもあった。
 
 ともかく日本の最高層から最低層まで中国大陸に対する関心が特別に高かった時代である。この関心がエコノミックアニマルではないが経済侵略となり遂に露骨な軍事侵略となってエスカレートしていくのだが、中には誠意と善意に満ちた大陸経綸家も決して少なくなかったのである。

 宮島詠士の父、貴族院議員宮島誠一郎もそうした真面目な大陸経綸家の一人で、長子大八(詠士)を早くから勝海舟の門人に入れたことも、また中国語を学ばせたことも、一貫した誠一郎の思想による。

 詠士が帰国後、生を終るまで中国語教育に尽瘁したのも、単なる語学技術教育を施した訳ではない。「明治大正のころ、支那大陸に志を抱く青年は頭山満、川島浪速、宮島大八の三巨頭の何れかの流れを汲んだものであった」と宮島門下の河相達夫氏は後に述懐している。

 僕等もこれらの名前は知っていて、何となく今流にいえばムード的にだが、頭山満はボスとして、川島浪速は冒険家として、宮島大八は地味で目立たない国士的な存在として感じられていたものだが、必ずしも当たっていなくはないようだ。面白いことには川島浪速は宮島詠士の外国語学校在学当時同級生であった。もっと面白いことがある。この外国語学校で宮島詠士と川島浪達とは清語科だが、同期の露語科に二葉亭四迷がいたのである。

 これらのいきさつについて朝日ジャーナル二十一号に早稲田大学教授安藤彦太郎先生が詳説されていられる(近代日本と中国(宮島大八と二葉亭四迷)それをこれから引用させて頂く。「明治十八年九月には外国語学校は廃校となる運命であった。英語・独語・仏語の三科は大学予備門に、露語・清語・韓語の三科は東京商業学校(後の高等商業高校で現在の一橋大学)にそれぞれ吸収されることに決まった。そこでこの三科の生徒達は納まらない「われわれ大陸問題に直接取り組む国士を、こともあろうに商業学校へ移れとは何事か」という訳だ。この騒ぎ、様々の経緯はあったが、説得者に人を得て大部分の学生は商業学校へ移るのだが、わが宮島詠士と二葉亭四迷のみ最後まで肯わず、とうとう二人ともども退学してしまう。

 時移って明治三十二年、現在の外語大の前身である東京外国語学校が創設されると、中国語科初代主任として宮島詠士が招聘されて数年間教鞭をとることになるが、何と同じ時期に二葉亭四迷は同校の露語科教授として迎えられているのだ。

 その後数年で、二人とも物質的には満ち足りていたはずの外国語学校を捨て、宮島は善隣書院に拠り、二葉亭四迷はいわゆる大陸浪人で満州を旅浪したり、また新朝警察学校校長になっていた例の同級生川島浪速のもとで学校経営を援助する傍ら、対露対清の裏面工作に打ち込んだりしている。
 国士的気質という当時の教養人の豪宕な精神は共通でも、露語を学んだ二葉亭四迷は近代文学に近づくことによって一種の分裂のうちに亡び、中国語を学んだ宮島は儒教的理想主義を頑なに貫いたとも見えよう。しかし、宮島の理想は果して貫かれたか。歴史が示す通りである。

 大正二年、宮島詠士四十七歳。大陸に志あった数々の人の霊を慰めるためとて鎮海観音会を開設、世田谷豪徳寺における月例法話会を開くことを、晩年に至るまでやめなかったとされる。この徹底した儒教主義者の観音信仰は奇異としてよい。


 二葉亭四迷が文学者といわれるのを如何に嫌がったかについて、池辺三山の話

察する所、長谷川君が当初外国語学校に入って露語科を選んだのは露西亜文学研究の志から起ったことでは無論有りますまい。寧ろ文学には少々縁の遠い方角に志が有って、或いは国際上か何かえらい思惑が有って、それで露西亜をやった次第で無かろう乎と存じます。其れが露西亜語研究の途中で露西亜文学という面白いものに出逢って、つい覚えず知らず釣り込まれて道草を食って、偶然に文学者となってしまっても本来の志がどうしても消えないので、彼んなに文学者の名を嫌ったのでは無かろう乎と存じます。あの嫌い方といったら一ト通りや二タ通りでは無かったようであります。(前記、近代と中国 宮島大八と二葉亭四迷から)

 これとは少し違うように見えるが、書家といわれるのを潔しとしない思想がごく最近まであった。志士・高士を以て自ら任じる者、あるいは学問に志す者が事とすべきでないという考えだから、根本においてはさほど違ってはいない訳だ。

 中国ではまた歴史的に職業書家と呼ばれるものはなかった、というより上述の、日本における書家蔑視の観念のお手本が中国の「書は君子の余戯」思想なのだから、桐域派の大儒曽国藩の学統を継ぐ張廉郷の真門である宮島詠士が、書道界とか書道展とかを無視したことも納得いく。そんなものは、むしろ彼にとっては唾棄すべきものであったかもしれない。

 しかし、明治二十年に彼が張廉郷に入門した動機となったのは、清国公使黎庶昌(張廉郷と同門)の勧めにもよるが、黎公使が父誠一郎に贈った張廉郷文集と共に、張廉郷の書いた蘇東坡の詩稿であったとは、宮島門下が口を揃えて伝えるところだから、彼の生涯を貫いた書に対する情熱が、彼をして書人宮島詠士に仕上げた事実は明白である。まして宮島は、中鋒説とか撥鐙法とか、書の技術面でも人並以上に苦労していることは前に述べた。

 今日でも、書法のなんたるかも知らず、物真似で「書家の書はどうも・・・」などといってる先生があるが、もうそれは時代遅れだ。

 書のスタイルのことで、宮島詠士の書は今日的でないと書いたが、書の芸術性というものは、いやすべて芸術はスタイルを越えて、われわれを感動せしめるものである。歴史は非常に移ってゆく。「国士」ということばも、死語とはいわぬまでももはや馴染み薄いものとなった。しかし、書は常に書だけを示して他の何物をも示さないから、宮島詠士の書は宮島詠士の「本来の面目」において輝くのである。

 宮島の書に関する奇妙な話があるから、それを最後に書いて終わる。

 山形市の「山形市役所」の門標と「山形市立病院済生館」の門標とは、張廉郷に酷似した謹厳な楷書で、欅材に刻字されているものだが、「宮島詠士の書であるとする説が有力である」とされてはいるが、何ぶんにもこの門標作製担当者が現存していて、大正六年頃自分が山形市の野川鼎象という篆刻家に頼み、野川が自ら書き自ら刻したものだと主張しているために確定できぬとある。詠士の嗣子宮島貞亮氏も、これは父の書に間違いないが、父は終生書家といわれることを嫌い、門標看板の類は一切書かなかった筈だと、あまりすっきりしない。

 この記事(昭和三十二年山形市で制作された宮島詠士先生遺墨選)と共に出ていた門標の写真で見る限り、みごとな書だと僕も思う。  (完:昭和47年頃執筆 未発表)
  
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